ナギはすっと目が覚めて、見慣れない天井に寝起きの思考で巡らした。そして自分の部屋が変わったわけじゃないことに気づいた。
夢じゃ、ないんだ。
頬をつねってみた。痛い。
隣にアサミの息づかいを感じてナギはほっとした。それでもナギが誰かに起こされずに起きるなんて珍しい。いつもだったら昼を回っていても起きないのに、どうしたものだろう?辺りの様子を窺うが、まだ人が起きている気配はがしなかった。
アサミを起こさないように蒲団から出ると、入り口の布の間から顔だけを出して外の様子を窺った。やはりまだ誰も起きていない。起きるどころか、太陽が顔を覗かせたばかりだった。
「早起きだな」
きゃっ、と短く悲鳴あげそうになるのをナギは慌てて飲み込んだ。すぐ間近にハディルが立っていたからだ。
「驚かさないでよ」
「そんなことで驚くな。気づかなかったのか?」
ふん、と鼻で笑われた。ムカつく。こいつ大っ嫌い。
「あんたは早いのね」
反抗のつもりで突っ張って聞いてみた。
「ああ。寝てないからな」
以外に普通に返されて普通に答えてしまった。
「それで平気なの?」
「ああ。普段から寝てない」
凄いことをさらりと言われた気がした。
「ふぅん………」
なんとなくこれ以上聞くことがなくなったナギはテントの中へ首を引っ込めた。
日がだいぶ昇ってきた頃、数人に見送られて四人は馬車に乗り込み、アジトを後にした。しかし国までの道は舗装されていなので。さっきからデコボコ道を登り続けている。ハディルやシーハの住んでいた国、アサヒルは、峠を一つ越えた先にあるそうだ。平地を開拓した、豊かで広大な土地らしい。それを独占していた王は、なぜこんなことをしてしまったのか理解できなかった。
そのことをナギはハディルに聞きたかったが、今日、
明日
はこういうことをアサミの前で一切口にしないことに決めていた。夕方になる前には国に着くらしいから、時間はたっぷりある。会話に困っているわけでもないので聞くのは帰ってからにしよう。
しばらく馬車に揺られると道がデコボコしなくなり、山がすぐそこまで迫っていた。
「アサヒルにはどれくらいの人が住んでるの?」
ナギは隣に座っているシーハに聞いた。そうだなぁ、と顎に手を当てた。
「ざっと三万人くらいじゃないかな?そんなの知ろうともしなかったなぁ。でも今は誰も住んでないけどね」
「誰も………?」
シーハの表情が暗くなった。
「うん。誰も」
それ以上言いたくないらしく、口を閉ざされた。
「ちょっと、止まって止まって!」
屋根がないのでアサミは簡単にぎょしゃ御者に身を乗り出すと御者の持つ手綱を引いた。急なことに御者は馬を止めた。
「ど、どうしたの!?」
急に止まって前の座席に半分沈んだナギは身体を起こした。アサミはハディルの制止を振り切って馬車からピョン、と跳ねて外へ飛び出した。
「見て!きれーい………」
アサミがため息をつくように声をこぼ零した。その感嘆の声につられてナギは顔を上げた。
澄んだ青い空に雪帽子をかぶり、風化で削られて鋭くなった藍色の岩肌を見せる山の姿が、鏡のようなに澄んだ湖面に逆さに映っている。氷のような冷たさを放つその湖は、底にある色とりどりの石が見えるくらい澄んでいた。その周囲はそれを守るように背の低い草で囲まれている。
気がつくとナギもアサミと同じように口を開けてその風景に見入っていた。
「きれい………」
ため息が出るほどに美しい風景に酔いしれてしまう。
「ああ。ローセイス湖だね」
シーハが前の席の背もたれに肘をつくと、アサミ越しにその湖を見た。
「へぇーーー」
ナギ達は特にどうでもいいような、おろそかな返事しか返せなかった。世界中のどこを探してもこんな風景には巡り会えないだろう。それでもシーハはナギの隣で説明してくれた。
「昔、天の
炎龍
が流した涙がこの湖になったって言う伝説があるんだよ」
「てんのえんりゅう?」
「
炎
を
司
る守護龍のことだよ。それぞれ
天地
の両方に守護龍がいて、守護龍はほとんど人の前に姿を現すことはないんだ。他にも守護龍はいるけど、この辺では天の炎龍が有名だよ」
「へえーーー」
今度はしっかりとシーハを見て答えた。
「ね、ナギもこっちおいでよ!」
手招きするアサミに導かれて、ナギも馬車を降りた。
近くに寄るとさらに圧巻だった。反射していた湖面の底がよく見える。意外と深くはなさそうだった。
「なんか、すごいね」
「うん。すごい」
二人してまた湖に映った山に見入る。
「こんな湖見ると石投げたくなるね」
ハッとしてアサミを見ると、もううずうずして手にした石を今にも投げ入れそうだった。
「大丈夫、かな?そんなことして」
ナギはシーハを仰いだ。話を聞いていたシーハは二人に声をかけた。
「大丈夫だよー。なんなら飲み水に取っていく?」
シーハは竹の水筒を持ち上げたが、ナギはその申し出を断った。答える時間が惜しい。自分も石を投げ入れたくてうずうずしている。
「じゃ、一緒に入れよ」
「うん」
ナギは手近かにあった石を手にすると、湖めがけて投げ入れる準備をする。
「せーのっ!」
二人のかけ声と共に小石が弧を描いた。そのままポチャンと音をたてて波紋を広げると、湖面に映る山の像がにわかに
歪
んだ。
「キャー!」
二人して喜んで叫ぶと、また石を投げ入れる。さらに大きな音と共に波紋が広がった。二人はそれを見てまた喜ぶ。ここにきて、初めて腹の底から笑ったことだった。
しびれを切らしたハディルに促されて二人はしぶしぶ馬車に乗り込み、当初の予定よりだいぶ遅れて国に着いた。もう太陽は遥か彼方に消えてしまい、明かりの
灯
っていない国は、例え近くで見えたとしても、国があることすら疑ってしまうだろう。もう暗いので国を見るのは明日にして、アサミとナギは馬車の中で眠り、あとの
御者
含めて三人には地面で寝てもらった。
「………本当にここが国なの?」
国に降り立ったアサミは、ただ呆然と国の様子を眺めるしかできなかった。
瓦礫
の山、と言うべきか。家の形はあっても屋根がなかったり、壁が壊されていたりして本来の機能が働いていないのがほとんどだ。他にも、焼かれたりした為だろう。辺りが焦げ臭かった。
「あそこにある城って………」
碁盤の目のように整備された道の先に、一つだけ
豪華絢爛
な建物があった。ナギが聞くまでもないことかもしれなかった。
「王」
ハディルとシーハの言葉が重なった。
「王の館………」
ナギが確認するかのよう声に出した。これを見たら詳しい話を聞かされていないナギにでも、王が今までどんなことをしていたのかわかる気がした。こんなのを許してはいけない。許しちゃダメだ。
「これがもう十年も?」
先にある程度説明を受けていたアサミは館からハディルに顔を向けた。
「はい。しかしここまでひどくありませんでした。………もう限界なのかもしれません」
ハディルの目が悲痛な思いで暗くなった。
「これを私が救導者として救わなきゃいけないんだ」
自然に零れたアサミの言葉に、ナギはハッとした。今日はそのことを考えさせないようにしなきゃいけなかったのに、そのことを考えさせてしまった。
「アサミ………」
声をかけようとしたが、逆にアサミに止められてしまった。
「いいの。もうわかったから。帰ろう」
ナギが館に背を向けたとき、物陰から何かが飛び出してきた。
「救導者様!?」
ボロ切れを身に
纏
い、骨に皮が張り付いているだけのような老人が弾丸の速さでアサミにしがみついてきた。さっとハディルとナギが老人の前に出たが、遅かった。
「どうかお助けください。もうここには何もないんじゃ。家も嫁も息子も娘も。だから、だからせめて………」
懇願する老人をハディルが無理やり引き剥がした。抵抗する力が残っていない老人はあっさりと離されてしまった。
「救導者様………」
消え入りそうな声で呼ばれ、声をかけたかったアサミは老人に近寄ろうとしてハディルに拒まれてしまい、何もできなかった。その訴えかける悲痛な目を見ていると、今何もできない自分に腹が立ってくる。
「お願い、離して」
ハディルの腕の中で抵抗するが、いとも簡単に止められてしまう。
「なりません」
「おじさん、私、私………」
老人の目を見て答えようとした。老人もアサミを見ていた。しかしその老人の身体が何かの反動で傾くと、地面に倒れて動かなくなってしまった。
「来たぞ!」
シーハがアサミを襲った静寂の中から叫ぶ。遥か遠くにある王の館から放たれた矢が寸分の狂いなくこちらめがけて飛んで来ていた。
「アサミ殿、つかまってください」
一瞬で狼に変身すると
逸
早くその場を離れる。アサミは倒れて動かない老人から目が離せなかった。
「アサミ!」
ナギが下から叫ぶが、アサミの耳に届いても、心までは届かなかった。
「何してるんだ!走れ!」
シーハに手を引かれ、やっとナギも走り出した。ビュッと音を立てて、すぐにナギのいた場所に矢が突き刺さった。
「アサミ!」
走りながら、何度もナギはアサミの名前を呼び続けた。
なんとか国から逃れ、四人は無言のままアジトに戻って来た。兵達に安堵の目を向けられたが、アサミはそれを避けるようにいそいそと自分のテントへ戻った。
「休める?」
まだ放心状態のアサミに声をかける。唸った返事が返ってきたが、具体的な返事は返ってこなかった。それも無理はない。今は何も考えたくないのだろう。
「もう寝よう」
背中を押して蒲団まで促してやると、アサミは素直に従った。そっと寝かすと、
蒲団
をかけてやる。
「先に寝ていいから」
優しく微笑みかけて離れようとすると、アサミに
裾
を引かれた。振り返ったらそこに壊れそうに涙を浮かべたアサミがいた。
「わたし、怖いよ………」
アサミの頬を涙が流れた。ナギはアサミの手を取ると隣に腰掛ける。そしてアサミを落ち着かせるように自然と微笑みを浮かべた。
「あのおじさん、ボロボロだった。ミイラ、みたいな、顔だった」
アサミはしゃくりあげながら言葉を紡ぐ。ナギはそれを黙って受け止めた。
「わたし、何かできるはずだった。でも、何も、できなかった。だから、だから、ね」
アサミの言いたいことはわかる。アサミは何もできなかった自分に腹を立てているんでしょう?救えたはずなのに、一瞬でも救導者に嫌気が差した自分が許せないんでしょう?
アサミの内心を察したナギは泣き崩れるアサミをそっと抱きしめた。
「これからアサミが救えばいいよ。誰も死なないように」
ナギの言葉を聞いて、アサミはさらにナギの胸の中で泣き出した。炎龍の湖じゃないが、それくらいの湖ができるかと思うくらい弱い自分を洗い流すかのように涙を流し続けた。
アサミは泣き疲れて眠ってしまい、気がついたら昼を回っていた。隣にいるはずのナギの姿がなく、シーハにこれから会議だと起こされた。寝起きに弱いアサミは寝ぼけてシーハをナギだと思い、思いっきり叩きつけて眠りから追い払おうとした。しかし意識がはっきりしてシーハだということに気づくと、顔を真っ赤にしてテントから飛び出していった。
基地の中を一人で歩き回ってテントに返ってきたナギは、シーハにその事を聞いて少し安心した。昨日のことはもう大丈夫みたい。
昼頃から始まった会議から暗くなって帰ってきアサミはぐったりしていた。
「大丈夫?」
「うん………」
返事が重い。アサミの気苦労は昨日からあったが、それとは別のものを感じた。
「何か、あったの?」
アサミは重い空気のまま返事をした。
「うん………。今度、王の館の一つを襲うんだって」
「うん………」
それでか。もう殺すも、殺されるも見たくないはずなのに、それなのに自分が人を殺す指揮を執るというのだから、アサミの気が重いのも無理はない。
「殺さないで、話し合いで解決して欲しいって何度も言ってみたけど………王はいつも力だけで対抗してきたから、だから今度も………」
「………アサミ、辞めればいいじゃん」
え、とアサミがナギを見つめた。さらりとナギに言われた言葉に目を丸くしている。
「もとの世界に戻っても、私達を受け入れてくれる所はないけど、だけど、人は殺さなくて済むよ?」
「で、でも………」
言い
淀
むアサミにナギは更に言葉を続けた。
「救導者だから戦いを止めたいの?違うでしょ?ハディルも、みんなはアサミを救導者だって言ってるけど、本当にそうなの?ただの思い違いじゃないの?」
アサミにこれ以上負担をかけちゃいけない。救導者が自分だったらまだしも、ナギが、自分が何もできない世界にいる必要はない。
「でも………」
どんどんアサミが泣きそうな、悲痛な表情になっていく。
「断れないよ。みんな、困ってる。みんな、誰かに助けて欲しいの。そんな人達を見殺しには………」
アサミの答えを聞いて、ナギはふっと顔を
緩
めた。
「できないんだよね、アサミは。わかってる」
ナギはそっとアサミに近づくと、その手を握った。
「わかってる。アサミは優しいから。もう誰も傷ついて欲しくない。困っている人達がいたら一人でも助けたい。そうだよね?」
「うん………」
「………頑張ってみたら?」
「え?」
「誰も血を流さないで解決する方法を。だって、救導者なんでしょ?」
最後にニコ、と笑ってみせる。アサミはそれで安心したのか、目頭に涙を浮かべた。ナギは慌ててその涙を拭いた。
アサミが落ち着いた頃、テントから顔を出すと、すぐに横にハディルがいてナギは思わず声を上げてしまった。
「そんなに驚くことはないだろう」
前の時もそうだったが、何の準備もなくハディルが入り口にいて驚かされる。それにこの人の口調はいつも刺々しい。昨日と変わらずナギにはきつい。
「いつからいたの?」
「ずっと」
「ずっと?」
「ずっとだ」
「ずっとって、アサミが帰ってきてから今まで?」
「そうだが?」
ナギの顔がぱっと赤くなった。さっきのやり取りもやっぱり聞かれたのだろうか?
「………どうした?」
「え?あ、いえ。なんでも」
ナギは急いでハディルに背を向けた。
「………シーハは?」
「呼んでくるか?たぶん自分の部屋にいると思うが………」
「いい。ちょっと話があるの。人気のない所へ連れてってくれない?」
もちろん断われると思っていたが、ハディルはナギを見てしばらく押し黙ると、一人歩き出した。ナギはいいの?と思いながらその後をついていった。人気のない所に出るとハディルが振り返った。
「話、とは?」
手短に話してくれ、と感じがプンプンしてむかつくが、ナギは気持ちを落ち着かせてしっかりとハディルを見た。
「アサミが人を殺したくない、って言ってたでしょう?」
ハディルがにわかに反応した。
「話し合い、は絶対無理なんでしょう?」
ハディルが無言で頷いた。
「今度は相手が準備する前に極秘で行う。だから話し合いを持ち込むと、計画が漏れる恐れがある。だから………」
「やっぱり無理なんだ」
ナギは重々しくため息をついた。
「アサミも連れてくの?」
「それはもちろん連れていくが?」
「そっか………」
ナギはしばらく
俯
き、考え込む。
「私に出来ることってないの?」
「ない」
一言、突き放すようにそう即答された。言葉を失うナギの横を、ハディルが目もくれず通り過ぎて行った。断られることは予想していた。だが、いざ言われるとやはり痛い。
「それでもっ!」
思わず声を荒げてしまった。ハディルが振り返り、ようやくナギを見た。
「私がここに来た理由ってないの?」
ナギは消え入りそうな声で聞くと、答えを聞くのが怖くて目を伏せる。ハディルは押し黙ったまま何も答えない。ハディルはそのままナギに背を向けて去って行ってしまった。
何よ。何とか言ったらどうなのよ。
泣き出しそうになる気持ちを抑え、ナギも遅れてテントへ引き返した。
自分には絶対ここにいる意味があると思っていた。なのに………
ナギの問題が解決しないまま、次の日の夜、団結式という名目でアサミが正式に兵の前でお披露目されることになった。アサミは口では嫌がっていたものの、まんざらそうでもなかった。式の時間が近づくにつれ、アサミは一日中考えた挨拶の言葉を何度もナギに聞いてもらっている。
「うわー。緊張するなー」
アサミは頬を高揚させて胸に手を当てる。よっぽど緊張しているらしい。
「そんなに緊張することでもないと思うけど?」
一方ナギはだらん、と身体を蒲団に投げ出していた。
「ナギは挨拶しないもん。私あんまりこう言うの好きじゃないんだけどなぁ」
頬を紅くさせ、またあいさつ文を読み返す。
そんなに気を使わなくてもいいと思うんだけどな。
ナギは男性しかいない所に行くのはいささか抵抗があった。
主役
はアサミなのだから、自分は行かないものと考えていたら、さらりとアサミに否定された。
………行かないといけないのかぁ。
「失礼します」
ナギの気がさらに重くなった時、突然シーハの声がして、ナギは慌てて跳ね起きた。跳ね起きると同時に血が逆流したかのように身体が熱くなった。ナギ自身も耳まで熱くなるのを感じた。シーハはテントに入ってくると、ナギとアサミに頭を下げた。
「そろそろお時間です。………よろしいですか?」
急に
身繕
いをしたナギを見てシーハは首を傾げた。
「え、ええ。よろしいですよ」
服を整え、最後に髪の毛を整えると大きく返事をした。いきなりのことでナギは動揺を隠せなかった。
「では、行きましょう」
急に行く気を出したナギを見て、アサミは微かに笑った。
二人は熱気溢れる広間に案内された。明かりに松明が灯され、人々が前方にある一段高い壇に向かって首を伸ばしていた。
「今宵、ここに
集
い
し
兵
たち達よ。我々は
勝機
を見出した」
ハディルが前方の段に立ち上がり、人々の前で声を張り上げた。全員が水を打ったように静まり、ハディルの言葉に耳を傾ける。
「先日、予見者が見た者が現れ、我々に道を教えてくれると約束してくれた。皆も知っていることだろう。その者はまだ子どもだ。だが、我々のために力を尽くしてくれると言ってくれた」
ハディルが屈んで、壇の下で呼ばれるのを待っていたアサミに手を伸ばした。
「さ、挨拶を」
アサミはおずおずと手を伸ばすと、ぐいっとハディルに引っ張られた。勢いがつきすぎて壇から転げ落ちそうになるのをアサミは何とか踏ん張った。体勢を整えて背筋を伸ばすが、もうすでに顔が真っ赤だ。
大丈夫かなぁ。
下で待っているナギは、ハラハラしながらアサミの様子を窺う。しんと静まり返った広場にアサミに対しての期待が満ちている。
「えっと、あの………こんにちは」
もう爆発寸前の真っ赤な顔を下げて、お辞儀をする。再び顔を上げた時にはもう顔の赤みが消えていた。それどころか目つきがしっかりとし、思わず尻込みしそうになるくらいの気迫を漂わせていた。
「まず、皆さんに一つ言っておかないといけないことがあります。私は今度の作戦に賛成していません」
思ってもいないアサミの言葉に、動揺の色を隠せない者が騒ぎ始めた。
「できれば人は殺したくない。誰も死んで欲しくない」
そんなことができればとっくにやっている。そんな声がどこからともな次々と沸いて出て、
相槌
の声がさらに上がった。
「だからもう終わらせる。犠牲を出さずに早期に終結させる。私達が勝利して!だから私も一緒に戦う。勝利を我らの手に!」
アサミが手を高く振り上げると、アサミに共感したほとんどの者が一緒に雄叫びと共に手を振り上げた。低い声と、熱気が辺りを包む。
そんな
逞
しくなったアサミを、ナギはどこか遠い眼差しで見つめていた。嬉しい反面、どこか虚しかった。やはりアサミに合っている。自分でなく、アサミが救導者に選ばれた理由がなんとなくわかった気がした。
「ナギ」
不意に後ろから呼ばれ、振り向いたらそこにハディルの姿を見つけて固まってしまった。
「話がある。来てくれ」
アサミは?と聞こうとしたが、ハディルはもう人ごみに
紛
れて話しかける所ではなくなった。慌てて後を追いかけると、ハディルはテントを守っている柵の入り口に手をかけていた。
「どこに行くのよ?」
外のことはアサヒルに出かけた時以来だった。それに夜は何が起こるのかわからない。少し不安にかられてハディルに用件を聞く。ハディルはゆっくり振り返ると、真剣な表情でナギを見据えた。
「これから話すことは誰にも聞かれたくない。それに誰にも見られてはいけない。アサミ殿のことなら大丈夫だ。シーハに言ってある」
アサミと言う言葉を聞いて、ナギは少し救いの道があると思えてそれにしがみついた。
「そうよ。アサミは?あなたはアサミを守らなきゃいけないんでしょう?放って置いていいの?」
ハディルは息を詰まらせるとナギにまた背を向けた。
「いい。今は大丈夫だ」
まるで自分に言い聞かせているようだった。ハディルは柵を開くとナギを通し、扉を閉めるとナギの先を歩き出した。
二人は木が生い茂げ、藍色がかった空に普通より少し大きな赤い月が足元を照らす中を歩いた。こっちにも月があるんだぁ、とゆうちょう悠長にナギは思いながら沈黙を保って歩き続けている。ハディルが月を見上げて立ち止まると、ナギも立ち止まった。星がさめざめと輝いている。
「自分に何かできることはないか、と言っていたな」
「え?ええ」
ナギは思ってもいなかった話題が掘り返されて正直戸惑ってしまった。
「ある、と言ったらどうする?」
「………やる」
一瞬アサミの姿が脳裏に浮かんだ。共に戦う。確かにアサミはそう言った。でも一人じゃない。みんなと、私も。
「自分を失ってもか?」
「どう、言うこと?」
険しいハディルの口調にさすがにナギも決心が揺らいだ。何かわからない恐怖が心の中を競りあがり、思わず叫んでハディルの言葉を遮りたい衝動に駆られた。
「
極
まれに違う世界から来た者が、私のように
獣聖
になる人がいる」
「じゅうせい?」
わけのわからない単語が、また胸を掻き乱す。不安に耐えるため握った
拳
が汗ばんできた。
「見ただろう。私のもう一つの姿を」
ハディルはアサミと契約した時の、姿が獣に変わった時のことを言っているのだと、ナギはすぐにわかった。
「獣聖になれば自分の感情を殺してアサミ殿の手助けができる。人と戦うことができる」
「私に、人を殺せって言うの?」
「違う。アサミ殿を助けるのだ」
「同じものよ」
ナギはうな垂れた。まさか、こんな話になるとは思ってもいなかった。本当はもっと軽く考えていた。何かの本を読んだり、アサミと一緒に作戦のことを話したり………どれも、自分には無理なのだろうか。
「他にはないの?」
「ある」
ハッと顔を上げた。もしかして私の考えていたような………
「テントの中で一日中待っていることだ。そして、この戦いが終わればどこかの州へ行って静かに暮らすことだ」
う、と息が詰まった。戦うか逃げるか。どちらかを選べと迫られている感じがした。実際そうなのだ。アサミは戦う道を選んだ。そして、人が死なない戦い方を見つけようとしている。じゃぁ、私は?逃げるの?
「………獣聖になると、何か変わったことがあるの?」
恐る恐る、試しに聞いてみた。
「特に変わったことはない。普段通りの生活ができるし、支障はない。だが、話では人から獣聖になる時には激しい苦痛があるらしい。それに完全な獣聖にはしない。私の分身という形にすればいささか苦痛も和らぐだろう」
「ハディルは人から獣聖になったんじゃないの?」
ハディルは軽く首を振った。
「私は生まれつきだ。だから詳しくは教えられないが、それでもやるか?」
ナギは唇を噛みしめた。逃げたくはない。でも人を殺したくはない。でも………
「人間の姿には戻れるの?」
「戻れるが、一生そのまま半分獣聖となる。それに、もしもとの世界に帰ったとしても一生獣聖の姿からは戻れない」
「それはもういい」
まだ根に残っていた思いを、ナギは強く否定した。もう帰れないのだから。帰っても自分の居場所はない。誰も受け入れてくれない。そう考えると心が軽くなった。
「わかった。私を獣聖にして」
ナギはハディルを直視した。
「………本当にいいのか?」
引き返すなら今しかない、と聞かれているようだ。
何よ。自分が言い出したことじゃない。
ナギが大きく頷いてみせるとハディルはナギに近づいた。
「では、これから契約とは逆の、
陰約
を行う。私の血を飲んでもらうことになる」
「それって美味しい?」
ハディルにしては珍しく険しい表情で迫ってきたので冗談で笑ってやったが、その顔に普段のあざ笑うかのような表情が戻らない。どうやらハディルは余裕がないらしい。
ナギはその緊張を汲み取ってさっと真剣な表情に戻した。ハディルは大きく息を吐き出し、指先に爪を立てた。そこにアサミの時と同じ赤い血の玉が膨れ上がった。でも、あの時とは違う空気が流れている。もっとぴりぴりしている。
「我、ここに
集居
集居る。全ての
理
に従い、ここに陰約を結ばんとする者なり」
足元から冷気を帯びた風が舞い上がり、お悪寒が背中を走った。さっと顔が青ざめる。
「
闇光
の誓約をここに
起
てる」
ハディルがそっとナギの顎を捕らえた。それは今までになく優しかった。そのおかげでナギの表情が一瞬和らいだが、またすぐに冷たくなる。なによりこの先に待っているだろう痛みのことを思うと、今から胃が痛い。どんな風に痛いんだろう………?
ハディルによって口が開かれ、その指先から
一滴
の血がナギの口の中に落ちた。落ちるとハディルはすぐに手を引き、その場に膝をついた。ナギは
躊躇
しながら血を飲み込んだ。
いつの間にか冷気が治まり、辺りはもとの静寂を取り戻していた。
途端、全身に激痛が走った。
「ーーーーーーっ!」
痛みに耐え切れず悲鳴が声ならなかった。髪の毛から足の先まで何かが駆け巡る。血が逆流しているみたいだ。眼球が飛び出て、皮膚が破裂しそう。痛みを発散すべく地面に爪を立てたが、力が入りすぎてその爪から血が流れ、違う痛みがまたナギを襲う。
あつい、いたい、くるしい………
もがき苦しみ、のた打ち回り、ナギは今の痛みに必死に耐えていた。ふと、誰かが心臓を
貫
いてくれたらどんなに楽なことだろう。帰れないことより、死ぬことより、ずっと辛い。そんな思いが浮かんだ。
その時、見上げたらそこにハディルがいた。獣になれるハディル。人を殺せるハディル。
気づくとナギはハディルに近づいていた。
ころ、して………
そんな思いでハディルを見つめる。疲れていたハディルも顔を上げ、ナギを見て首を振った。
「アサミ殿が悲しむ」
アサミ。
ナギの中で何かが急速に熱を奪われた。
そうだ、アサミ。
進みかかった足が止まる。さらにハディルは言葉を続けた。
「それに、ナギは自分で選んだはずだ。自分にできることはないか、と」
私にできること………
ナギの動きが止まった。痛みも引き、力が抜ける。すると違う変化が訪れた。髪が伸び、色が明るい赤から銀に変わる。目にも変化が訪れ、右目が淡い水色に変わる。爪が鋭く伸び、身体が軽く感じられる。なにより、背中に重みを感じた。背に月の光を受けて純白に輝く翼が生えた。
変化が乏しくなると、ハディルがそっと声をかけた。
「大丈夫か?」
声がいつもより鮮明に聞こえた。少し高く思える。
「頭が痛い」
それでも冷静になれた。全ての感覚が自分のものだと受け入れられる。よく見える目と、よく聞こえる耳。それに背中に生える翼までも。
「もとの姿には戻れるか?」
ナギは内心首を傾げた。自分の意志に関係なく姿が変わったのに、どうやって自分の意志でもとの姿に戻るのだろう。
「とりあえずやってみる」
ナギはそう答えるしかできなかった。さっき襲われた痛みに疲れているし、どうやればいいのかわからない。
自分がもとの姿に戻っていることをなんとなく想像した。でも、身体に何も変化を感じない。
やっぱりできなかった。
「無理だよ………できない」
このままこの姿なのか、と絶望にかられているとハディルは自分も獣の姿に変わった。
森の中に狼と天使のような獣聖が向き合った。
「想像するんだ。もとの自分の姿を鮮明に、髪の毛の一本まで」
低く唸るように言われた。
自分の姿?鏡の前に立っても、服装はよく見るけど顔はなぁ………
ナギがうなって考え込むと、ハディルがそっと優しい眼差しを向けた。
「難しく考えるな。どんなことでもいい。思い出したことだけを鮮明にするんだ」
ナギはハディルに言われた通りにした。自分の姿を
瞼
に
描
く。髪の毛はもっと赤くて今より半分くらい短い。目は両方とも赤い。体型は自慢にはならないけども、ややいいほうだ。学校の制服を着て、黒い靴下を履いて皮の靴を履く。左の小指は父親に似て右より小さい。
そんなことを考えていると、ふっと力が抜けた。とたんにぐったりと身体が後ろに倒れた。
地面につく前にハディルが受け止めてナギの衝撃を和らげた。それでも起き上がる気力が残っていないナギはそのままハディルに身を預けた。ふわふわしているハディルの毛皮を通して感じる温もりが気持ちいい。まるで干したての蒲団の中にいるようで、ナギはそのまま意識を手放した。
温かい眠りの中で、誰かに激しく揺り起こされてナギは目を覚ました。身体がだるい。頭が重く、思考が働かない。
「もう〜置いてっちゃうぞ!」
なおも揺り動かされる。
「なに………?」
やっと誰なのかわかったナギはアサミの手を掴んで止めさせた。
「もう!今日作戦決行でしょうー!」
アサミに言われ、はっとなった。
そうだった………すっかり忘れてた。
この為に昨日獣聖になったんだ。でも………あれ?私、いつ帰ったっけ?
「ねぇ私、いつ帰った?」
部屋から出ようとしていたアサミが振り返った。
「私が帰る前にいたよ?その時からもう寝てたけど、もしかして寝すぎて頭働かない?」
うん、と頷いてようやく身体を起こした。そして考える。………ハディルだ。
「それと、なんか着替えた方がいいってハディルに言われたよ。ナギの分はそこにあるから」
部屋の一角を指差されそちらを見る。薄く赤い布のようなものが積み重なっていた。
「どう?似合う?」
言われてアサミを見ると同じく制服でなく、この世界でよく見かける服に着替えていた。色は土に似ている。兵たちの間で着ている服と同じだ。
「似合うじゃん。いい感じだよ」
ナギに言われてアサミが嬉しそうににっこり微笑んだ。そこにハディルがやって来てアサミに対して胸に手を当てた。みんなアサミに対してまずこれをする。どうやらアサミに敬意を払っているらしい。あれかな?軍人さんが「イェッサー!」とか言いながら手をあげる、あれと同じなんだと思う。きっとそんな感じだ。
「そろそろ出発の準備が整います。先に行きましょう」
アサミはやけにハイテンションに返事をすると、ハディルの横を通って外へ飛び出した。残されたハディルはナギに目を向けた。
「具合はどうだ?」
「あんまりよくない」
初めて会ったときとは違い、少し丸みを帯びて聞かれた。
もう、嫌いじゃないのかな?
ずっと嫌われているものだと思っていたナギは戸惑ってしまう。
「今日は休んだらどうだ?このままついていってもアサミ殿に心配をかけるだけだ」
確かに、正論だ。でもそれでは自分が獣聖になった意味がない。
「行く。行かなきゃ」
立ち上がろうと力を入れるが、腰が浮かない。
「止めておけ。ただでさえ疲れているんだから、鞭を打つな」
「でも………!」
ハディルを睨む。行く。私は行かなければならないの。アサミを守るの。アサミを狙う敵から守るの。私の居るべき場所はアサミの隣なんだから。
揺るぎない決意の目でハディルを睨む。するとため息を吐かれた。
「なにか文句でもあるの?」
頭にきて膨れた。ハディルはどこか呆れたような感じだった。
「違う。おかしいのではない。ナギが私の術を破ったときのことを思い出したのだ」
術、と言われて訳がわからなかった。でも何かハディルを驚かせたことは覚えている。ハディルに最初に会ったとき身体の自由を奪われたが、自力で動いたことだ。
「あのときと同じ目をしている。止められても進んでしまいそうな目だ」
そう言われてなんだか恥ずかしくなって俯いてしまった。
そんなふうに見えるの?
「術をかけても破られてしまうのかな?」
軽く聞かれ、ナギは真っ白になった頭で答えを考えた。
「えっと…。あ、えっと、多分。いや、きっと………」
今回は大人しくしておこう。
本能的にそう思った。それに顔が熱くてこれ以上ハディルと一緒にいられない。
「わかりました!休んでるからそうアサミに伝えて!」
早く話を切り上げたくて一言で言い切ると、ナギは蒲団に身を沈めた。背中にハディルのため息を感じたが、それは呆れでなく安堵のため息に感じた。
「では」
ハディルの気配が消え、次いで大勢の人々の気配が消えた。わずかに居残った者達がアサミ達を見送ってアジトはもとの静けさを取り戻した。