単身乗り込んだアサミは冷たい多くの視線に射られて、その場に凍り付く。生気の感じないその動きに足がすくんでしまった。
ハディルの言う通り、王に話し合いの意思はまったくなかった。アサミはそのままある部屋の一室に閉じ込められてしまった。
ごめんなさい………
アサミは目頭を熱くしてハディルがいるであろう方向に頭を下げた。ハディルはいつも私のことを考えてくれて、私の事を守ってくれていたのに、それなのに私はそんなハディルの思いを無視してしまった。
ごめんなさい………
また頭を下げてしまう。自分のわがままでこうなってしまっても、きっとハディルは探しに来てくれるのだろう。でも、それがたまに嬉しく感じる時がある。王子様に憧れていたような感じで、アサミはハディルのことを想っていた。
「ハディル………」
早く迎えに来て、という思いは飲み込んで、アサミはそっと鉄格子の窓から外を見下ろした。人々が次々と地面に倒れる。それもアサミの敵のほうだった。
トントン、と部屋の戸を叩かれた。アサミは肩をビクつかせて扉から入って来た人を見た。皺の多い恐そうなおじさんだった。
「お前が救導者か」
物々しいその言い方に、アサミは怯えながら頷いた。
「ふん。こんな小娘一匹に王が足を取られるとは………」
「きゃっ!」
急に男の手がアサミの頭を掴んだ。その大きな手は片手でアサミの頭を包み込んでしまう。
「悪く思わないでくれよ」
「何、するの!放して!」
アサミは男の手を払い退けようと必死になるが、アサミの攻撃は空を掠めるだけだった。
「終わったら放してやるよ。ちょっとそこらの兵士と同じようにするだけだ。大人しくしていやがれ!」
ぐっ、と男に頭を握られ、一瞬意識が翻弄した。男はその隙にアサミに手を出す。
「きゃっ!」
何かが頭の中に割り込んできて、誰かが命令してくる。お前を自由にしてやる、とか、お前の願いを叶えてやる、などいろんなことを一度に言われて、アサミは混乱するしかなかった。自分の意思では、入り込んだ力に逆らうことができない。どうしたらいいのかわからない。
助けて………ハディル………
「くっ。もうここまで来たのか」
急に頭の重みが消えた。アサミは力なくその場に倒れると、足早に去り行く足音を朦朧とする意識の中で聞いた。
………助かった?
意識がこれ以上保てない。でもここで意識を手放してしまったら………
「アサミ殿!」
今一番支えにしてきた言葉が聞こえてきて、アサミは最後の力を振り絞った。何か暖かい感触がアサミを包み込む。そのまま部屋から連れ出されたようだった。
ハディル………?助けてくれたの?
嬉しくて、嬉しくてこの気持ちいい中にずっといたくて、それを口に出そうとしたが、声にならなかった。アサミはそのまま安心感に
苛
まれて深い眠りについた。
「ん………」
アサミが無意識に寝返りを打ったら、ふわっ、と髪の毛を掻き上げられたのに気づいた。
「誰………?」
アサミは寝ぼけ眼で聞くが、大体見当はついていた。ハディルだ。え、やだ、私寝顔見られてた!
アサミは瞬時に跳ね起きる。案の定ハディルがアサミの横にいて、アサミは顔を真っ赤にした。
「やだ、み、見てないでよ!」
アサミは慌てて髪の毛を整えたりしているが、ハディルはまったく意に介してない様子だった。
「おはようございます」
落ち着いた声で言われ、アサミも少し落ち着いて返した。
「おはようございます………」
「お身体は大丈夫でございすか?向こうにいた間に何かされませんでしたか?」
「あ………」
アサミは気を失う前のことを思い出して、ハディルに申し訳ない思いで一杯になった。一方のハディルはアサミが思い止まったので何かあったのではないかと心配になっていく。
「あ、あの何かあったのですか………?」
眉を曲げて心配するハディルの顔をアサミは見つめた。
「ううん。違うの。ごめんなさい」
頭を下げて謝るアサミに、ハディルの表情は間の抜けたまま普通に戻らない。
「ハディルの言うこともっとよく聞いていればよかった。そうしたらこんなことにならなかったのにね。本当にごめんなさい。心配かけました」
頭を下げて謝るアサミにハディルはそっと肩に手を置いた。
「いいえ。謝らなくてはいけないのは私の方です。アサミ殿ばかりに負担をかけすぎました。それにアサミ殿の意見を尊重しようとせずにいたために、誰にも頼る術のなかったアサミ殿は一人で行かれたのです。ですから私の責任でもあります。ずっと一緒にいると契約したのに、それなのに………」
自分だけが悪いと思っていたアサミは、ハディルから思いもしない言葉が飛び出してあたふたしてしまった。
「え、で、でもハディルは私を止めようとしたよ?王は話の聞く相手じゃないって。だから意味がないって………」
「それでも精一杯努力してみるものでした。それもせずに否定ばかり………申し訳ありませんでした」
「い、いいのに」
相手の心配をしていたら、逆に自分の心配をされていた。ハディルはいつもこっちの気も知らないでアサミのことを心配してくれている。
「ありがとう」
嬉しくなって目頭に涙を浮かべた。アサミはハディルに腕を伸ばすとその頑丈な身体に抱きついた。ふわっ、と温かい香りがした。
「ありがとう………」
拒絶されるかと思っていたらハディルはアサミを受け止めてくれた。
「本当に無事でよかったです………」
嬉しそうに耳元でそう言われて、自分が無事に生きていることがこんなに人を嬉しくさせるものだと初めて気づかれた。
「心配かけてごめんなさい」
アサミもハディルの耳元でもう一度謝った。何度謝っても足りないくらいだ。
そして、
ありがとう。
アサミはぎゅっとハディルを抱きしめた。
「そう言えばナギは来なかったの?」
アジトへの帰り道、アサミがなんとなくハディルに聞いた。顔を合わせていなかったのでアサミにはわからなかったが、ハディルは微かに反応を示していた。
「えぇ、来ませんでした」
「体調でも崩したのかな?」
「さあ………」
ハディルは曖昧に交わすとその話題から離れた。アサミには言ってはいけないのだ。ナギが来たこと、そして獣聖になって一緒に戦っていたことも。
どのくらいか馬車に揺られていると、懐かしい光景が広がるようになってきた。
「アサミーーー!」
前方から明るい声が聞こえてきてアサミは馬車の窓から身を乗り出した。ナギがアジトの入り口でこちらに向かって手を振っている。
「ナギーーー!」
アサミも手を振り返した。ナギの姿を見るのが懐かしく思えた。いつもずっと傍にいたはずなのに、少し離れた間にいろいろあっていつもと違う再会に感じた。
「アサミ!」
「ナギ!」
キャーと歓喜の声を上げながら、二人は懐かしむようにしかと抱き合った。
「大丈夫だった!?」
ナギが思い出したかのようにアサミの身体を見回す。
「大丈夫だよ。我らの勝利なり」
ブイサインをして見せると、ナギはほっと肩の力を抜いた。
「アサミがやばいって噂があったから、心配したんだよ?」
「ご、ごめん………」
しっかりここまでアサミのことが伝わっていたのだ。当たり前といえば当たり前だが、全て筒抜けの所がアサミにとって少々痛かった。
「なんともないよ。ほら」
服の端を引っ張り、一周して見せる。大丈夫そうだね、と返事が返ってきた。
「これから何かお祭りがあるみたいだよ」
ナギがアサミを引っ張った。
「勝利記念の
杯
だって。でも困るよね。私達未成年なのに出る飲み物が全てお酒なんだって」
「えー。でもこっちのお酒はアルコール入ってないかもよ?」
「ううん」
すっとナギが真剣な表情になった。
「入ってたのよ。少し飲んだら
咽
焼けちゃった。そうとう度数高いよ」
「ナギ、ダメじゃない!」
「頼むからアサミ殿に勧めないでくれよ」
後ろに控えていたハディルがアサミに続いて付け加えた。二人して責められてナギは膨れた。
「もう。何よ二人して。ウソだよーだ。私が飲む訳ないじゃん。嫌だ。酒臭いの」
「お酒かぁ。ちょっと興味あるかも」
「アサミ!」
「アサミ殿!」
今度はアサミが二人に責められる番だった。
「う、ウソだよ。本気にしないでよ………」
アサミがタジタジに二人から離れようとする。
「ハディル、ちゃんとアサミがお酒を飲まないように見張っててね」
「もちろんだ」
二人は小声でそう決めると、アサミと一緒にアジトの中へ戻った。
昼間なのにもうどんちゃん騒ぎをしたがっている者がほとんどだった。王に対して圧勝で勝ったのは今回が初めてのことらしい。そのせいでみんな浮かれていた。
「ねぇナギ、こっちはどう?」
自分のテントに帰ってきた二人は、夜に開かれる祭りに合わせて衣装を選んでいた。と、言ってもさっき帰ってきたばかりのアサミだけが張り切っているのだった。
「どれでもいいと思うけど?」
何も準備をしないナギを見かねて、アサミは無理やりナギに服を当てた。
「いいよ、私は!」
「ダーメ。こういう時くらいオシャレしなきゃ」
「オシャレって………」
もとの世界だったらきらびやかなドレスとかあっただろうが、こちらにはそういう物がない。女手があったらまだましだが、それがまったくない今、ここにある服はこの世界でも少し昔に
流行
った、お世辞にも心を惹かれるような服ではなかった。
アサミはそれらを手にして鏡の前でとっかえひっかえしている。
「どうして戦に出るような男の所へオシャレして行かなきゃならないのよ」
「言うけど、ナギは前の世界にいた時はそうだったじゃない」
「そりぁ………」
あの頃は啓太君がいたから………いつ会ってもいいように、いつでもキレイに………え?アサミ、もしかして………
「ねぇ、一つ聞いてもいい?」
「ん?」
鏡の前で服と格闘しているアサミがそのまま答えた。
「アサミ、好きな人できた?」
ピク、とアサミの手が止まった。
「やっぱ、わかる?」
アサミはへへ、と幸せそうに笑いながら振り返った。ああ、やっぱり………
「ハディル?」
ナギの鋭い言葉に、アサミの顔がぱっと赤くなった。
図星。あいつのどこがいいんだろう?
「アサミ、あいつだけは止めときなよ」
「なんで?」
「なんでって………」
獣聖だし、私達をこっちの世界に強制的に連れてきた犯人だし。
「なんでも!」
なんとも言いにくくてナギはそれだけ言い切った。
「ナギはハディルのこと嫌いなの?」
「なんで?」
「なんとなく、そんな感じがする」
「そう?」
自分では感じたことのないことを言われ、ナギはそうなのかなぁ、と考え込む。
「だって最初に会った時、私には目もくれてなかったじゃない。それからもアサミだけと話をしようとして私は除け者だったし」
「そうでもないと思うけどな?」
アサミに首を傾げられて、ナギは苦笑してしまった。ハディルに選ばれたのはアサミだったのだ。いや、救導者に選ばれたのはアサミなのだから、そう思わないでよ。
「で、ハディルのどんなところがいいわけ?」
「えっと………」
ナギに話題を振られ、アサミは顔を赤くしてもじもじし始めた。
「なんか、白雪姫の王子様って感じがしたの」
「王子様!?」
全然似合わないイメージにナギは吹き出してしまった。
「ありえない!ありえない!無理だよ王子様なんて」
「でもそう思ったの!」
必死に言うアサミの姿を見てナギは笑うのを止めた。
「で、どうして白雪姫なの?」
「うん。悪い魔女がいるわけじゃないけど、私達城、じゃなくてもとの世界から追い出されたようなものじゃない?そこへ迎えに来たのがハディルだったの」
ナギはふと、ハディルとアサミというカップルもまんざら悪くもなさそうだと思った。
「応援するよ」
「え?」
「アサミを応援するよ。で、いつ告白するの?」
「え、こ、告白!?」
一気に茹でタコになったアサミはもう耳まで真っ赤だ。
「考えてなかったの?じゃ、これからチャンスがあったらいつでも伝えちゃえ。ね?」
横腹を突っついて冷かしにそう言うと、アサミはゆっくり頷いた。
「お幸せに〜。じゃ、服選び手伝うね」
「うん!」
そんなこんなで、おめかししたアサミとナギがお祭りの行われる広場に向かったのは、すっかり日が暮れてからだった。
「遅かったですね。何を………」
アサミを見つけたハディルは二人の容姿を見て思わず言葉を失っていた。アサミは肩の辺りがふんわりとした白いドレス、ナギは袖口が広がった膝丈のスカート姿だった。二人の姿は、男だらけで華がない中で、まさに荒野に花が咲いたような感じだった。
「どうよ?けっこう似合うでしょう?」
ナギは何とかハディルの口を動かそうと促すが、当の本人は固まったままだ。
「変?」
アサミに聞かれてようやく我に返ったハディルは、言葉を紡ぎ出した。
「とても綺麗ですよ」
顔を
綻
ばせたハディルの言葉に嬉しそうにアサミが飛び跳ねた。
「ね、ナギ、私ちょっと行ってくるね」
アサミは恥ずかしさのあまりか、足早にその場を離れて行ってしまった。
それじゃ、意味ないのに………
「ナギも似合っている」
不意にハディルに、アサミに向けた表情と同じ顔でそう言われてナギは言葉に詰まってしまった。
「ど、どうも」
どういう心境の変化か、ハディルがナギにも目を向けるようになった。やっぱり、ハディルはハディルなりにナギのことを気遣っているのだろうか?
「別に気を使ってもらわなくてもいいんだけど?私はもう大丈夫だし、アサミもまだ聞いてこないから」
「だが………」
「ハディルは心配性になりすぎなのよ。ほら、アサミ困ってるじゃない。行ってあげて」
ナギが示したように、今アサミは酔っ払いに絡まれて困っていた。
「アサミ殿!」
ハディルは慌てて人垣を掻き分けてアサミのもとへ向かった。
私は、もう大丈夫。
それからナギも加わり、アサミとナギは初めての祭りを楽しんだ。
翌日、昼頃から始まった会議にアサミとナギの姿があった。王の館が潰され、その王直々の手紙が届いたのだ。
「ナギが一緒って嬉しいな」
緊迫しつつある空気の中、アサミが固まっているナギに話しかけるが、ナギはまともに返事ができなかった。一つのテーブルを囲んだ会議がこんなに重苦しいとは思ってもいなかった。最初に会った時とは全然違う。最初はもっと穏やかだったが、今は慎重になりすぎて前にも後ろにも進めない、と言った感じだった。その中でもアサミはいつものアサミだった。この場の空気を何とも感じていないようだった。
「手紙の内容は王の支配権の放棄と平民の半分の開放。食料庫の三分の一の明け渡しと、王の身柄と、あと残っている王の館全ての安全確保、だそうです」
「こんなの取引でもなんでもない、ただの口約束のようなものだ」
「ばかげている」
「でもこの要求はいいかもしれない」
最後の一人の発言に、皆がその人に注目した。
「だって我々の目標は王の支配から逃れることだろう?その王が支配権を放棄する、と言っているのだから好都合じゃないのか?」
「ダーメ」
気の抜けたようなアサミの言葉にナギはっとアサミの方を見た。
「確かに王の支配から逃れるのか目標でもあるけど、最終目標は王から支配を受けている人達の全員解放でしょう?これじゃ半分しか返ってこないじゃない。王に伝えて。私達はあなたの提案に賛同できない。兵を全員解放しないのなら、また館を襲う、と」
「はっ」
手紙を読んでいた者がさっと奥のほうに引っ込んでいった。
「で、他には?」
アサミが次を促すように言うと、一人が思い出したように口を開いた。
「先の戦いで敵として戦っていた一部の兵士が我が軍に入りたいとのことです」
「どのくらい?」
「戦死した者の数より少し上回っております」
「う〜ん………逃げ出したり、裏切ったりしないの?」
「そのことなら心配いりません。敵としていた頃は皆王に従うのが嫌だったのですが、何者かに操られて無理に戦わされていた、とのことです」
「じゃ、いいよ。みんな入れてあげて」
「はっ」
「次はぁ?」
そんな感じでさらりと会議が進んでいく。前までは会議が終わってテントに帰ってくるとぐったりしていたアサミだったが、今はそんなそぶりを微塵も感じさせない。
ナギはそんなアサミを見ていて、どこか誇らし気だった。なんだかんだ言ってもみんながアサミを救導者と認めているし、アサミ自身もそのことに自覚している。今、ナギは素直にアサミが救導者でよかったと思った。
アサミはそつなく会議を済ませるとナギと自分のテントへ戻った。夕食はもう済ませたから後は寝るだけなので、暇な二人は無駄話に花を咲かせていた。
「そういえばシーハ君の姿見なくなったね」
何気なく出たアサミの言葉に、ナギは一瞬体を強張らせた。
「そう、だね」
ナギは言葉を出すのを躊躇した。本当のことをアサミに言うべきか、言わないべきか。悩んだあげく、ナギはアサミを外に連れ出した。適当な、人気のない所へたどり着くとそこに腰を下ろした。
「何?」
何の説明もないまま着いて行ったアサミも、ナギの隣に腰を下ろした。ナギはアサミが隣に座るのを見て話し出した。
「私達、よく考えみたたら向こうの世界にいた頃に比べてあんまり自分達のこと話さなくなったな、と思ったの」
ナギは夜空を見上げた。満月の月光がほのかに二人を白く照らす。アサミもつられて夜空を見上げた。
「そうだね………。いろいろありすぎてそんな暇なかったもんね」
しばらく二人で夜空を見上げた。月の光は変わらないのに、二人の人生が大きく変わった気がした。ナギはしばらく沈黙を保ってやっと声を出した。
「私、前の世界にいた頃、異世界に行けたらいいなってずっと思ってたの」
うん、とアサミが軽く相槌を打った。
「でね、今のアサミみたいに、救導者とかになって世界を救うのに憧れてた。でも現実は違った。アサミは異世界みたいのに憧れてなかった?」
「う〜ん………ファンタジー系の本はよく読んでたけど、憧れはしなかったなぁ。でも、そういう世界は好きだったな」
「アサミは最初この世界に来て、ハディルに異世界だって言われた時、あんまり動揺してなかったよね?」
「あ、うん。あの時、あんまり違和感しなかったんだ。自分でもよくわからないだけどね」
「私はショックだった」
ナギがふ、と顔を伏せた。
「自分が望んだ異世界に来られたのに混乱ばっかりして、あげくの果てにアサミが救導者だって言われた時にショックを受けた。どうして私じゃないの?って」
「そう、だったの………」
アサミも首を垂らした。ナギはしばらく間を置くと顔を上げた。
「でも今はもういいの。アサミが自分で決意して救導者になってくれたからいいの。それでよかった。ハディルが救導者、救導者うるさかったから、そのせいで決めたことじゃないからよかった」
「あんまりハディルのこと悪く言わないでよね」
アサミが少し唇を尖らせた。ナギは笑って誤魔化した。
「アサミはどう思う?私がもしハディルみたいに獣になったら」
ナギは何気なく聞いてみた。これは少し気になっていたことでもあったからだ。でもどんな返事が返ってきてもそのことは隠すつもりだ。
「う〜ん。ナギが?ちょっとヤダかも」
そっか、とうつむき加減にナギは答えた。やっぱりアサミには獣聖のことを伏せておこう。
「でもハディルはいいの?」
「もう!ナギ!」
ナギがからかったら、本当に怒っているようで、アサミは手を上げた。
「ごめん。そんなつもりじゃなかったの。アサミの愛するハディル様だもんね」
「そ、そうじゃないよ!」
アサミは慌てて辺りの様子を窺った。アサミが心配しなくても当のハディルは今いないのだ。それでもこの暗い中、アサミの顔が真っ赤になっていくのがわかった。
「アサミってさ、もとの世界にいた頃に好きな男の子とかいなかったの?」
「へぇ?」
アサミが頓狂な声を上げて固まってしまった。ナギはその反応を見て、クスクス笑い出した。
「いなかったんだ。だからあんなにもハディルに夢中なんだね」
そんなんじゃありません、とアサミは否定するが、その言葉は口
籠
って説得力がなかった。
「私はいたよ」
ナギは笑うのを止めると、また夜空を見上げた。アサミは初耳の言葉にナギの横顔を見つめている。
「啓太君って覚えてる?私、あの人のこと好きだったの。アサミは知ってた?」
我ながら自分の恋話しは恥ずかしいものだった。アサミが首振ったので、今度はナギが顔を赤くする番だった。
「全然気がつかなかった。そっかぁ。ナギは啓太君が好みだったんだ。啓太君には告白したの?」
ナギは首を振った。
「アサミに言ってないのに、本人に言ってるはずないじゃんか。もうどうやったって言えないし、だからアサミも言えるうちに言っときなよ?」
う、うん。と口籠った返事が返ってきた。ナギはふと目を細めた。
「みんな、今頃どうしているかな?」
「そうだね………もう私達が帰っても意味ないんだよね」
「うん。誰も私達のこと覚えてないんだもん」
「私はその方がよかったかも」
「なんで?」
アサミの口から出てくるには珍しい発言にナギはアサミを見つめた。
「私あんまり家に居たくなかったから」
アサミは悲しみを含んだ影を表情に浮かべた。
「
家
、父子家庭だったじゃん」
ナギも沈痛な表情になった。アサミの家庭は、アサミが小さい頃に両親が離婚してしまった。妹と二人姉妹のうちアサミは父に、顔も知らない妹は母にそれぞれ引き取られた。アサミ自身はその頃の記憶がなく、母と妹のことは一切覚えていないらしい。でも父と二人だけ生活には違和感があって苦しい思いをしてきたのだ。ナギはそんなアサミを少しでも助けられたらいいといつも思っていた。前にお母さんに会いたい?と聞いたことがあったが、アサミは、
「恐いからいい。会ってもお母さんだってわからないから私は会いたくない」
と悲しい表情をして言われてしまった。それ以来ナギはこの話題に触れずにいた。
「ナギに言ってなかったけど、お父さんアル中だったの」
アル中?アルコール中毒のこと?そんなこと全然聞いてなかった。あれって暴力とかするやつでしょう?もしかして………
ナギが心配な表情でアサミを見つめると、アサミはナギの心の内を察してふっと顔を緩めた。
「そうだよ。ほら」
アサミが腕をまくる。するとそこにはいくつもの火傷の痕と、切り傷があった。
ナギは何かアサミに声をかけようとしたがアサミに首を振られてしまった。
「しょうがなかったの。どうすることもできなかったの。お父さん泣きながらお酒飲んで、行き場のない悲しみを私にぶつけるしかなかったの。私しか家族はいないんだもの。でもお酒飲まないお父さんはすごく優しかったんだ。いつもニコニコして、私のために、不器用なくせに、ご飯、作ってくれたり、して………」
アサミは話しながら涙を流している。声も自然と涙声になってしまう。それでもアサミはナギに心の内を伝えてくれた。
「だから私お父さんのこと好きだった。ずっと愛してた。でも最近はお酒を飲む間隔がどんどん短くなって、いつも恐かった。いつ、殺されても、おかしくなかったから。そんなになるまで私、お父さんのこと救えなかった。私しか救えなかったのに、だから、もう、何もできない所には、帰りたく、ない」
アサミは最後まで言い切ると、大きな音を立てて鼻をすすった。ナギは泣き崩れるアサミを横から抱き、頭をなでてやった。アサミは泣きながらナギの身体に腕を回した。
「もう大丈夫だよ。アサミはちゃんと救ってるよ。救導者になって人を救ってるよ」
アサミは涙を流して何度も頷いた。
「私にも、この世界に来て意味があったんだから、ナギにも、絶対あるよ」
「私がここに来た意味?」
アサミが涙を必死に止めながら何度も頷く。
「無意味でこっちの世界に連れられたんじゃないと思うの。もともと私達はこっちの世界にいていい存在じゃないでしょう?だから、私に救導者と言う意味があったみたいに、ナギにも意味があると思う」
「そう、かな?」
首を傾げながらも、ナギは密かに嬉しかった。自分にも、異世界に来て何かに呼ばれていたり、前から思っていたような役割がナギを待っているのだろうか。
「あるはずだよ。ハディルに聞いたらいいかもね。私達をこっちの世界に連れてきたんだから」
「アサミが聞いてくれる?」
「え?」
「ハディルと話せるチャンスだよ?」
「ナギ!」
アサミは慌てたようにナギに手を上げた。もうその表情から悲しみは漂っていなかった。
「じゃ、帰ろっか。もう眠いよ」
ナギは大口を開けてあくびをすると立ち上がった。アサミも一緒に立ち上がる。ナギはテントへ向かう途中、心が浮きっぱなしだった。
私にもここに来た意味がある。
その言葉でナギが救導者に選ばれなくても納得ができた。
明日、ハディルに聞いてみよう。