NEOSU          The writer is 楼 羽青









                       No.2

 天使≠悪魔

≠( イコールではない)















   よく晴れた空の下、ガラガラと音を従えて青年と父親を乗せた馬車がお見合い相手の町へ向かっていた。
『いいか、エル。何があっても相手の嫌がることや、気に入らないようなことをするんじゃないぞ』
 エルは隣にいる父に言われたことをふと思い出した。晴れり、気持ちの良い空気が流れるが、どの風景もエルの心を晴らすことはできなかった。音に出さずエルはため息をつく。目に映る景色がただ流れていく。
『別にそんなのどうでもいいし……大切なのは…僕の判断基準は、僕のことをどう思うか………それだけだ』
 いくつか風景が変わってある町で馬車が止まった。エルは辺りのことなど目に入っていない。町のことなんて、どうでもいい。 エルは朝からただ一つのことしか考えていなかった。
『……逃げたい』
 馬車の中で永遠と耳にたこができるほど長々と父にマニュアルを聞かされて、もううんざりしていた。もう誰にも会いたくない。父にも、相手にも、赤の他人にも。しかし父はエルが逃げしたら怒り狂うだろう。普段から何も出来ない分際で言うことすら聞けないとは何事だ、と。
 しかしエルは変えたかった。自分を。この状況を。今そのことを恐れていたら現状を変えることなどできないのだ。
『確か…相手の名前はヒスリア。資産家の一人娘。つまり、政略結婚というわけか……』
 政略結婚と聞いていい印象なんて出てくるはずがない。
『父は本当に僕のことを手駒のように思ってるんだ……』
 エルはきっと目を閉じる。まぶたの奥から何か熱いものが湧いて来るようできつく目を閉じた。
『僕は………最後まで僕を認めてもらえないままなのか……?』
 父は町に着くやいなや、町で待っていた相手の父親と、何か込み合った話をし始めた。隣でボーッとしながら聞いていたエルだが、ふと考えを巡らす。
『今って……絶好のチャンス?』
 エルは横目で辺りの様子を窺う。辺りには誰もいないし、こちらに目を向けている人もいない。ただでさえ人の少ない町だから外を歩いている人もいない。そしてそっと父から離れてみた。父は話に夢中になってエルのことに気づかない。
 さらに一歩。握った手に汗が滲んだ。
 反応がない。心臓がドクドクと波打つ。
 エルは大きく息を吸うと、さっと父に背を向けて一心不乱に駆け出した。
 前には家が数件あるだけで、あとは後ろを森に囲まれている。
 逃げるのなら森しかない。
 全力で風を切って走る。すれ違う人や、こちらを見ている人はいない。走りながら神経を全て後ろに向ける。父が気づいたのかも知れない。でも、もしかしたら気づいてないのかもしれない。振り返って確かめたかったが、その気の緩みで見つかっては意味が無い。エルはさらに全力で走り続けた。
 足元だけ見て、必死で走る。踏み込んだ時の土の感触が、森の中で風を切ることが、新鮮な空気を、息切れをしながら吸うことが、微かだが小動物のさえずりを聞くことが、すべてが妙に心地いい。今は逃げないといけないのに。なのに、なぜか今のエルの心は落ち着いていた。
『逃げ出したのに…?全てが嫌になって、逃げたのに?』
 だいぶ分け入り、ようやくエルは立ち止まった。息が切れるが、苦ではなかった。
『どうして?……どうしてこんなにもすがすがしいんだ?』
 エルは息を整えると、最後に大きく深呼吸をする。心臓が、ゆっくり鼓動を打ち始めた。後ろを振り返るとだれも追いかけてこない。そして軽く笑った。
 開放的な場所のせいか、本音がポロリとこぼれた。
「………嫌だった。家にいるのが嫌だった。いつも相手の目を気にして、おびえていた。家族なのに、他人のようだった。なにか……なにかがいつも、僕の心をとらえて仕方がなかった。ただ……嫌だったんだ」
 エルはもう一度大きく息を吸った。そしてゆっくり吐き出す。さぁ、と冷たい風がエルの頬を撫でエルは気持ちよくて目を閉じる。
『なんか、もう終わったみたいだ。帰らなくていい。このまま……本当にいなくなってしまいたい……』
 エルはふっと笑って、また歩き始めた。行き先はないが、これから何とかなりそうに思える。そんないい気分なのだ。
『こんなにも、あの家からいなくなることが嬉しいなんて、考えもしなかった。本当に、このまま――』
 エルの心に光がささった。もう家という闇にいなくていい。本気でそう思う。何もかも投げ捨てて、自分で見つけた小さな光を信じて歩みだす。
「本当に…行こう……か――――っ!」
 言葉が切れる。エルは、一瞬何が起こったのかわからなかった。突然足が地面にのめり込んで体が大きく傾く。そして―――天と地がひっくり返った。
「うわ――!」
 エルは自分のとこで頭が一杯で、草で覆われていた大きな穴に気づかないまま歩いたのだ。エルはそのまま穴に吸い込まれるように、穴を滑り落ちていく。少し地面を滑ると粉塵を巻き上げながら体が止まった。
「ぐっ……」
 エルは咳をしながら体を少し持ち上げると辺りを見回す。少し底の浅いお椀のような穴に落ちてしまったようだ。立ち上がろうとしたが、足が重くて動けない。しばらくしたら動けるようになれそうだが、今は無理だ。
 自分の愚かさに自嘲してフッと息を吐いた時、ガサガサと葉る音にエルはピクリと動きを止める。音が止み、再び音がした。誰かがこちらに向かっている。エルは背中に嫌な汗を感じ、ヒヤリとすた。
『まさか………』
 そして――








 天使が舞い下りた。








 金色の髪の毛を宙に舞い、
 白い、ふんわりとした服が風に揺れる。






 エルは舞い降りた人を見て目が止まる。その人を見つめたまま動けなくなった。










 エルの目の前に天使が舞い下りたのだ。










 草の間から音を鳴らしながら現れたその人は、エルを見つめたまま、ふっくらとした白い服と腰まで金の長い髪を揺らしながら太陽にすかして穏やかに微笑んでいる。まるで救いに来た天使そのものだ。
 その人はエルのそばによると、顔を覗き込んだ。


「大丈夫ですか?」
 綺麗なソプラノの声が間近に届く。エルはハッとして舞い降りた少女から意識を戻した。
「あ、あぁ………だいじょうぶ」
「本当?」
 小さく首を傾げ、少女はエルを見る。エルはその少女に安心させるように微笑んだ。
「大丈夫だよ」 
 少女はその言葉を聞いて安心したのか、エルから少し離れた。
「どうしてこんな所にいるんですか?」
 少女の問いかけに、エルは開きかけた口を閉じた。
『この人に、逃げてきたことを話しても……な』
「君こそ、こんな所を偶然通りかかったの?」
 ビクリ、と肩が震えた。少女はふっと目を伏せたがすぐに戻した。
「うん。そう。歩ける?」
「ちょっと、ね。まだ痛いんだ」
 エルは苦笑いをする。自分が浮かれていて怪我をした、なんてこの人に死んでも言えない。眉をひそめたエルを心配して少女が手をさし出した。
「私の町まで送ろうか?」
 その一言に眉がさらにひそみそうになるのを堪える。
『もう……戻るしかないよなぁ……』
「あ、ありがとう」
 差し出した少女の手をエルはそっと受け取った。細い少女の手がしっかりとエルを捉える。
 少女に肩を貸してもらいながら、エルは来た道を戻り始めた。気分は軽かったり、重かったりだ。
 エルは少し間を空けてから話しかけた。
「ねえ、良かったら君の名前を教えてくれないかな?」
「ヒスリア。ヒスリア・ハーネッド」
 さらりと返ってきた言葉に、エルは表情を硬くする。
『ハーネッド?ヒスリア?その名前って………今日の相手の名前じゃない
 エルはヒスリアの横顔を見つめた。
『まさか、この人だったなんて……』
 エルのけはいを感じてヒスリアがエルを見た。目と目が正面でぶつかる。
 エルは反射的に顔を反らした。
「ね、あなたの名前は?」
 エルは表情を隠すように、空を見上げる。だけど空の色など目に入っていなかった。
「名乗るほどでもないよ。それに、いずれまた会えるよ」
「……?」
 エルの言葉が理解できないのか、ヒスリアが首を傾げた。
『あーあ。これから先が…重苦しい………』
 エルがため息を深々と吐いたとき、前から二人の男が走って来た。


「さて。もう挨拶は十分ですね」
 お見合いの席で、エルの父が言う。それでもこの場の雰囲気が和むことはなかった。どうやらヒスリアも抜け出したようで、ヒスリアの母が怒りを露にしていた。
「二人だけにしてみてはどうでしょうか」
「そうですね」
 エルの父と、ヒスリアの母がそそくさとその場を立ち去り、部屋にはエルとヒスリアだけ残された。二人の間に重苦しい空気が流れる。お互いに目を合わさず、口も開かない。
「あの」
 重苦しい空気を一掃するかのように、ヒスリアが口を開いた。
「あなたは、この結婚のこと、どう思っているんですか?」
 少しかすり傷のあるエルの顔が、ヒスリアに向けられた。
「ねえヒスリア、君はこれが政略結婚だってことを、知ってるのかい?」
 まじめな問いに、ヒスリアは沈黙を保った。うつむくヒスリアにエルは言う。
『僕は……』
「僕は正直言って、この結婚のことはどうでもいいんだ。親同士の醜い争いなんて、気にしてない。だけど……だけど僕は」
 ヒスリアがゆっくり顔を上げてエルを見つめた。エルはしっかりとヒスリアを見つめ返す。
「君を、妻とは思えない」
 その言葉に、ヒスリアはすこし気を張り詰めたが、ふっと緩めた。エルはなんとなくヒスリアと目を合わせられなかった。なぜか、合わせてはいけないような気がした。
「ねぇ。なんで逃げ出したの?」
 吹っ切れたような軽い問いに、エルも心のどこかで何かが軽くなった。
「君だって、逃げ出したんでしょう?」
 エルの返事に、ヒスリアは思わず吹きだした。
「そうだった。私も人のこと言えなかったね」
 フフッと笑うと、ヒスリアは顔を引き締め、話し出した。
「私は、結婚が嫌だったの。あ、でもあなたのことが嫌いじゃないの。今の私の親は、本当の親じゃなくて、私は今まで言うがなすままだったから。だから、最後の最後まで言いなりで終わりたくなかった。だから逃げ出したの」
 突然の告白にエルは目を丸くする。
   正直言って、戸惑った。こんな深刻なこと今まで誰にも打ち明けられたことがなかった。エルはヒスリアの話を聞いて、自分のことを言おうか何度も迷った。気のいい仲の友達だったら簡単に返事をしていただろう。でも、最後に思いが自分をとどめた。
『相手に気を許したら、傷つくのは自分だ』
 エルは笑顔のヒスリアに、そっと呟いた。
「ヒスリアは、これからどうしたい?」
「え?」
 ヒスリアがエルを見る。気のいい仲なら、もしヒスリアを友達としてなら、こんなことも許されるのかもしれない。
「いっそのこと、また二人で逃げ出しちゃおうか」
 冗談のように笑顔でヒスリアに言う。
『何言ってるんだろ。いまさら、この人に心を許す?あの、天使のようだったこの人を。この人なら、僕を救ってくれるのか?ウソだ。僕は頼らないし、頼られない。今までのままでいいんだ。今までのままで………』
 自分が言った言葉に傷つく。こんなことはいつものことだ。エルはヒスリアが首を横に振ることを密かに期待していた。しかし、
 ヒスリアはエルに頷いた。
「行きましょう」
 ヒスリアの自信たっぷりの返答に、エルは表情を変えない、むしろ変えられるほどの余裕が出てこなかった。
「本当に、いいの?」
 ヒスリアはまた頷く。エルはやりきれない気持ちを、必死に押さえていた。
『ヒスリアは………どうしてこうも、心を揺らすようなことを平気で言うんだろう………』
 今にでもヒスリアを連れて、この、よどんだ 場所 (せかい) を抜け出したかった。でも―――
『傷つくのは、もういいんだ――――』
 エルはヒスリアから顔を背ける。
「ウソはいけないよ」
「え?」
 エルは静かにイスから立ち上がる。
「君がどんな思いで答えてくれたのかはわからないけど、これだけは、偽善で答えちゃいけないんだよ」
 立ち去ろうとしたエルを止めるように、ヒスリアが勢いよく立ち上がる。その拍子にイスがひっくり返った。
「ウソなんかじゃない!」
 突然のヒスリアの大声に、エルの体は棒のように動きを止める。恐る恐る振り返ってみると、目頭に涙をためてまっすぐに見つめるヒスリアの目があった。そして震えて、今にも消えそうな声がヒスリアの口からこぼれた。
「ウソなんかじゃ…ない」
 エルはヒスリアから目を反らし、そっと背を向けた。その目には迷いはもうなかった。
「わかった。行こう」
 背越しにだが、ヒスリアの顔が晴れるのがわかった。
「一緒行こう」
「うん!」
 ヒスリアが大きく頷く。エルは明るいヒスリアの声を感じて、どこか心が痛んだ。 「行くなら、いつ行く?」
 すっかり行く気のヒスリアがエルに聞く。エルは振り向いてポケットから小さな鈴を取り出した。チリン、と澄んだ音が部屋に響く。
「今夜、この鈴が鳴ったら外に出てきてくれる?」
「わかった。待ってるね」
 エルはヒスリアに微笑むと部屋のノブに手をかけた。
『待ってる……か』
 そっとドアを押し開いた。


「行ってこい、行ってこい」
 父の声を背中に浴びながら、エルはヒスリアの家に向かった。父にはヒスリアの家に行ってくるとだけ伝えてある。
『追い出したいんだもん……な』
 エルは布で包まれた長細い物を握り締める。固い感触が布の上から伝わった。立ち止まり、布をほど解いてみた。解かれてゆく布の下から、月明かりに照らされた両刃の剣が表れた。
『僕は………この剣であの人を守れるんだろうか……』
 この世界にはモンスターが時々現れる。どのモンスターも凶暴で人を襲った例をいくつも耳にしたことがあった。
 ろくに扱ったこともないもので、本当に自分を、そしてあの人を守れるんだろうか。
 スッと鞘から刀身をのぞいて見る。曇りない光がエルの顔を映しだす。エルはしばらくその刀身を見つめた。
『どうしてあんなに心を開いちゃったんだろう。なんで……傷つくってわかっていたはずなのに……どうして………』
 エルは刀身をしまい、鞘を腰にさして再び歩き出した。
『もう………二度と帰らない……もう戻らないんだ』


 チリン チリリン
 凛と澄んだ鈴の音が、物静かな闇夜に波紋を作りだす。エルはもう一度慎重に鳴らした。ヒスリアの家の前で鈴を鳴らす。するとガラッと上から音がして開いた窓から黒い影が動いた。
 エルはその黒い影がヒスリアだとわかってホッと顔を和ませた。
『本当に待っていてくれたんだ……』
 ヒスリアが窓から身を乗り出し、そのまま下に落ちた。フワッと髪が左右に広がると、体が真下に傾く。
「危な―!」
 エルは静かにしないといけないことも忘れ、ヒスリアに駆け出した。ヒスリアはエルがたどり着く前に、無事に地面に着地すると笑顔でエルに言った。
「大丈夫。いつものことだから」
 立ち止まったエルは、呆然とヒスリアを見てしまった。
『いつものこと、なんだ………』
「エル?」
 ヒスリアに呼ばれ、エルはハッとした。
「あ、はい。えっと……行こうか」
「うん」
 二人は静かに、一度も振り返ることなく町を後にした。
 エルは見つかったあとの心配はしてなった。置手紙のひとつも書いてない。もう戻ってくることはないんだ。そんな物は必要ない。今心配なことは無事にどこかの町に行くことだ。
「ヒスリアは、あれが政略結婚だったってこと、知ってたの?」
 いくらか歩いたとき、エルがようやく口を開いた。ヒスリアは荷物の、小さなバックを背負いなおした。
「なんとなく、ね。それに、もういいじゃない。そんな話は」
「そうだね。でも、本当に来てよかったの?」
「そう言うエルだって、よかったの?」
「ああ。いいんだ」
 エルは少しうつむいた。ヒスリアの顔を見ずに呟く。
「さっきだって、ヒスリアが本当に待っててくれたなんて、思ってなかったから」
 エルの後ろにいるヒスリアの足音が止まった。
「だって、約束したじゃない」
『………!』
 エルも立ち止まった。
「……そんなに驚いた?一緒に行くって言ったこと」
 ヒスリアが暗がりの中、エルの顔を覗き込んだ。でも、暗くて表情は読み取れなかった。
「う、ううん。さ、行こう」
 エルは慌てたように先を歩き始めた。
『信じて……くれたんだ』


 二人はとりあえず隣町のコビリに向かうことにした。エルにとっては、親から離れられればどこでも良かったのだが、暗く、野宿の経験もないので、とりあえずの行き先をそこにした。
「あ、雨」
 ヒスリアが立ち止まり、空を見上げる。エルもつられて空を見上げた。冷たい雨粒がポツリとおでこに当たった。しかも辺りに雨宿りできそうな所がなく、二人は駆け足で砂利道を進んでいった。
「ねぇエル」
 たたっと雨よけのフードをかぶったヒスリアがエルの横にきた。
「何?」
 エルもフードをかぶり、歩きながらヒスリアに聞く。
「私、会ってみたい人がいるの」
「誰?」
 しばらくヒスリアから返事が返ってこなかった。
「私の、本当の両親」
 エルは体ごとヒスリアに向け、立ち止まった。
「本当の……」
 エルはヒスリアが昼間に言った言葉を思い出した。
『今の親は本当の親じゃない。………ヒスリアは拾われたんだろうか。しかし昔に捨てた子に会ってくれるんだろうか……』
「会ってみたくて……」
 消え入りそうな声が聞こえた。エルはヒスリアの表情を読み取ろうとしたが、フードが邪魔で見えなかった。エルは前を向くと口を開く。
「探そうか」
 えっ、とヒスリアがエルを見上げた。
「探そうよ。僕もヒスリアの両親に会ってみたいから」
「でも……」
 ヒスリアが顔を下げた。
「親の顔とか、名前とか知らないの……」
「え」
 ヒスリアがあたふたと考えはじめた。
『それじゃ、どうやって探せばいいんだ?』
 黙ったエルを見て、ヒスリアが慌てて作り笑いを向けた。
「たぶん、なんとかなるよ。ほら、私に似た人とか、知ってる人とかを探せばいいから」
「……うん」
 再び歩き出したヒスリアの背をエルはただ見つめるしかなかった。
『本当に、大丈夫なのかな?』


 雨は一向に止むけはいを見せず、ただ闇が深まるばかりで、二人の体力と体温をを奪い続けていた。
「コビリまでもう少しだから、がんばって」
 遅れがちになってきたヒスリアに、エルは声をかけてやる。ヒスリアが苦笑いで答えた。
『早く着かないと。ヒスリア、相当疲れてる』
 エルは小走りに先を急ぐ。すると暗闇の先にほのかな町の明かりが見えてきた。
「ヒスリア!見…」
 エルが明るく振り返り、言葉を失った。エルの先には、暗い闇とヒスリアと、モンスターがいた。
「キャ―――――」
 ヒスリアがゴリラのようなモンスターを凝視しながら、後ずさりをする。エルは鞘から慣れない刀身を引き抜くと、モンスターとヒスリアの間に割って入った。
「ヒスリア、逃げて!」
 背後でヒスリアが足をもつれながら遠ざかっていくのを感じ、モンスターを睨んだ。モンスターは獲物が逃げたと思い、強力な爪をエルの首めがけて大きく振る。エルはしゃがんでそれをかわすと、剣を突き刺す。刃はモンスターの毛を切っただけだった。エルは後ろに飛びのくと、剣の柄を握りなおした。
「はぁ!」
 エルは踏み込んで、大きく剣を振り上げる。切りつけようとしたが、技に無駄な動きが大きすぎてモンスターの反撃を許してしまった。
「かっ」
 肋骨を強打して、エルは呼吸をするのも困難になるほど胸が熱くなるのを覚えた。しかしいつまでもぬかるんだ地面に横たわっているわけにはいかない。エルはすぐ立ち上がった。
『ヒスリアがいるんだ……』
 エルは口の中に広がった血を吐き出した。口中に鉄の味が広がった。しかし今はそんなことにかまっている暇は無い。エルはすぐモンスターに切りかかった。
『ヒスリアは僕が守るんだ。
  弱いけど、
  何もできないけど、
  僕が、』
 エルはモンスターに向かって剣の先を突きたてた。
「僕が守るんだ!!」

意志を持った目で剣を振りかざすエル


 風を切りながら振り下ろされた剣は、モンスターの右腕を切り落とした。モンスターの叫びとともに、生暖かい血と腕が地面に落ちた。
 その場で動かなくなったモンスターを見て、エルはヒスリアを探した。ヒスリアは不安そうに岩陰から様子を窺っていた。
『…よかった』
 エルは表情を緩めると、ヒスリアに歩み寄った。背後にいたモンスターに気づかずに。
 エルが気づいて振り返った時にはもう遅かった。モンスターの残りの腕で跳ね除けられると、泥の地面を石ころのように転がった。激痛が全身を走り、何もできなかった。ぼやける視界の中で、エルはヒスリアの姿を探した。モンスターが動かなくなったエルから、標的をヒスリアに変更して、岩へ向かって進んでいた。全身から血の気が失せた。
『動け』
 エルは再び足に力を込めたが、込めるごとに激痛が全身を走り、動くとこができない。
『動け。動けよ!何でこんなときに動かないんだよ!』
 目の前のモンスターから赤い光が見えた。いや、正確にはその光はヒスリアの手の内から発している光だった。その光が丸い形になると、赤い炎の玉になった。
「燃えちゃって!」
 ヒスリアの叫びとともに、炎の玉がモンスターに向かって低速で飛んでいった。その玉がモンスターに触れたとたん、モンスターの体が炎に包まれた。それを見て、ペタンとヒスリアがその場に座り込んだ。
『もう、大丈夫なのか…?』
 エルはようやく動かせるようになった体を起こした。まだ痛みはあるが、最初ほどではなかった。そしてヒスリアのほうを見た。が、まだ焦点が合わない。
 燃え惑うモンスターがヒスリアに突進し、左の爪でヒスリアの長い髪を切り裂いた。金色の髪が暗闇に花びらのように広がり、髪が落ちたとともに、モンスターもとうとう動かなくなった。そして、ヒスリアも動かなかった。
 エルは体を這うようにして、ヒスリアに近づいた。そして側によると、そっと抱き起こした。息はしているものの、顔色は真っ青で、体が動かない。
『僕は……守れなかった………?』
 雨が降り注ぎ、染みをつくった様な黒一色の闇の中にいたエルは、傷ついた体でヒスリアを抱きかかえると、光の射すの方へ向かった。